昭和五十六年四月五日 朝の御理解


御理解第五十節 「とかく信心は、地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ」


 干天続きの時には、お水をまいただけでも、野菜なら野菜、植物は生き生きとしてきます。水に肥料になるような成分というかそういうものはないに致しましても、そのお水で生き生きとしてくる。 その上常日頃の信心をさせて頂いておれば、それが肥料ともなり、心を豊かに肥やす元にもなるのですから、ひとりでに物が出来るようなおかげということも言えるわけであります。問題はその根肥やしになるような信心でなからなければならんのです。ただ何年何十年お参りしておるから、常平生にそうした信心が出来ておるからと言うても、それが肥やしにも何にもならないようなものではつまりませんね。いざという時にやはり神様を頂き切って行くというか。
 昨日、ここ二三日、毎日電話がかかってきておりますが、北九州の方から参ってくる鈴木さんというおばあさんがあります。いつも上野先生が御取次さして頂くんですけども。先日から福岡の娘さんの所へ見えて病気になられる。それが大変な難しい病気で、今夜が背越しだと。昨日一昨日でしたか、そういう電話が掛かってきた。それを電話で、上野先生宛に電話が掛かってきて、上野先生がここで御取次さして頂きました。
 二度目に掛かってきた時にはもう五時間の命とお医者から言われた。そういう言うならば生と死の境をさまようような時であっても、そのおばあさんの心の中には、「合楽に御取次を頂けばおかげ頂く」といったようなものがある。「私が自分で電話を掛ける」ち言われた。びっくりして娘さんもお医者さんもそれを止められたということですけれども。その時に私は、あの「出来んでも出来たかのようなおかげ」ということを頂いたです。
 これは私共はこうやって日々おかげを受けておりますけれども、出来たからおかげを受けとるというのじゃない。出来とらんけれども出来たかのようにおかげを下さるのである。私はそういう信心があの肥料になるのじゃないかと思うですね。ただ長年参っております。拝んでおりますじゃなくて、少しは自分の手の届かないところにいつも心を置いておくということ。
 例えば先だってから、嶋野さんの所の高校受験のあれがそうですよね。もう本当に例え
ば娘の不合格の通知が来た時に心が騒がなかった。とにかくお礼を申し上げる他にないと、改めてのお礼参拝であった。その時に私が頂いたのは『サボテン』ということであった。「サ」というのは合楽の信心でしょう。佐賀の佐です。「ボ」は保ということ、保証の保。『天が保証する』という、神が保証するというような意味の御理解を頂いたんですけれども。
 私は本心の所を言うたら、やはり娘が合格のおかげを頂いた方が有難かったんだとこう思うです。けども日頃頂いておる教えがこう蘇ってきた。本当に落第、それに心からお礼が言えれるというものはなかっても、形の上だけでも、娘を、いわゆる意気消沈しておる娘を励まして、「とにかくお礼参拝するより他になかばい」と言うて、特別のお礼のお届けをさせてもろうて、お礼を申し上げたら、神様が『佐保天』とこうおっしゃる。その都度都度に神様が言うなら感じて下さる悌子さんの信心に。
 本当に心から私はお礼が言えたかどうかは疑問であるけれども、本当に心からお礼が出来たとして神様はおかげを下さる。言うなら『佐保天』と、いやもうお徳ということでしょう。神様が保証すると。神様の保証ということです。天が保証する。合楽の神様が保証して下さるというのですから、佐・保・天というね。「御神徳とは神様の御信用だ」と久留米の初代は言っておられます。
 だから日頃と。日頃習っておることがすっきりと頂け、すっきりと垢抜けしたものではなくても、日頃習っておる信心をです。例えば心ではビクビクであっても、心では芯からのその喜びではなくっても、その教えを言うならば自分、教えを行じ抜こうとする精神に、神様は本当なことは出来とらんけれども、本当なことが出来たかのようにしておかげを下さる。
 昨日、その鈴木さん所から、娘さんから電話が掛かってきて、上野先生宛にやっぱ掛かってきた。で、上野先生がお届けさしてもらいますのに、「もうそれこそ現代医学ではどうにも出来ないはずのその病気が、五時間しか保てないのがもうおかげを頂いて、これなら助かるだろうというところまでおかげを頂いた」とこういうのである。神様が「出来んけれども出来たかのように、元気な心で信心せよ」とおっしゃるから、もうそれこそ後数時間の命と言われる人が起きてきて、自分がお届けに行くというようなその心に免じて、出来んけれども出来たかのようにしておかげを下さる。
 これはそのことだけじゃなくて、私共の頂くおかげはみんなそうだと思います。出来んけれども出来たかのように、だからその形だけでも出来たかのような信心。普通で言うならがっかりして、本当にありしこお願いしとっても落第をした。合格しなかった。本当に娘の心を思うたら、親の心は千々に砕けるのが普通である。子供が可愛そうと思う。けどもそこに鞭打って、日頃の教えを生き生きと生かす。そこにです。言うならば『佐保天』。神様の御信用というものは、そういう時に頂けるのじゃなかろうか。
 出来んでも、言うならば出来たかのように、それが出来ればもっと素晴らしいことなんだ本当は。けれども私共の場合は、出来んけれども出来たかのようにしておかげを下さる
。私は本当の肥料というのはね、少しは難しい。少しは自分に手が届かないというような所をです。こう押してでもそこん所を行じ抜いて行こうとする心、そういう心が本当の肥料になるのじゃなかろうか。そういう信心が続けられて行く時に、それこそひとりでに物が出来るようなおかげというおかげにつながって行くのだというふうに思います。
どうぞ。